最近では9月の始めに、「独島で日本人がアシカ狩り」を行っていたとして、お馴染みの徐敬徳(ソ・ギョンドク)誠信(ソンシン)女子大学教授が、島根県の竹島広報物のパロディ広告を作成し、韓国でも報道されました。

竹島周辺のアシカ漁は、併合前の朝鮮や、日本からも20世紀初め頃から盛んになります。そんな中、竹島は1905年2月22日「島根県告示第40号」により島根県隠岐島司の所管となります。これは、竹島でアシカ猟をするため、島根県周吉(すき)郡西郷町(現隠岐の島町)の漁業者、中井養三郎が明治政府に求めたことに始まり、明治政府は同年1月28日の閣議決定で、"無主の地" だった無人島を「竹島」と命名し日本領に編入、2月22日の島根県告示に至ります。

日本統治時代の朝鮮半島でもアシカ漁は盛んで、徐敬徳氏が主張する「独島で日本人がアシカ狩り」を行った事は全くのウソではありません。日本人も朝鮮人もアシカ狩りをしていました。

 

併合時に個体数が減少したのは確かですが、太平洋戦争の影響で戦時中は漁が停止され、1945年を迎えます。

1945年以降、韓国で発行された新聞に竹島でのアシカの姿が報道されているので、その記事を紹介します。

 

まずは、1900年頃からアシカ狩りを行い日本人に売っていたという朝鮮人のお爺さんを取材した記事。竹島についても語っています。

 

独島は昔から我が国土
国民日報
1962.03.19

日本人の陰すら見かけない ... 元山、対馬まで我々の舞台

アシカ捕獲のために出漁
齢90歳の老翁の証言
巨文島にて140年来の伝承
老齢の漁師 金允三氏の回顧

【麗水】東海の孤島独島が我が国の領土であるという事実は、何かいも重ねて説明してきたが、巨文島に住む老齢の漁師が今回、自身の生き生きとした回顧談を通じて、独島の韓国領有権を裏付けてくれた。巨文島西島里に住む今年87歳の金允三氏、年より遥かに若く健康に見えた。荒々しい波を上手く乗り切る事で有名な巨文島の人々は、文明が発達していなかった昔から海上貿易に従事しいていた。金氏が19歳になった年、村の人々と一緒に丸太をつなぎ合わせて作った大きな「一千俵級」の筏に乗り、初めて商売のための航海に加わることになった。

葦で作った大きな帆を掲げ、風邪に押されて西海に沿って北へ北へと遡った。季節風に従って済物浦(仁川)はもとより、遠く信義州(当時は義州)まで上り、米と穀物をいっぱいに積み、南海を経て東海を遡り元山まで行っては、明太など海産物と交換して戻って来る物々交換の貿易を行った。季節風だけに頼った航海であるため、その日にちははっきりしてはいないが、季節によって吹いてくる風に変わりは無かった。「嘆かわしい。咸鏡道、泣かせる鬱陵島、あの海の向こうに宝島がある」といった楽しい歌を口ずさみながら、20人余りが櫓をこぐこともあった。航海中に大きな嵐にあい、生死の境を彷徨った事も南海かあった。

金氏が20歳になった夏(1895年)、「一千俵級」の貿易船5,6隻が元山を経て鬱陵島に到着、島の鬱蒼とした大木を切り倒して筏を作った。晴れた日は、東の海の真ん中にぼんやり見える島があった。年配の船頭に「あれは何か」と尋ねた。「あの島はトルソム(石島=独島の別名)だが、巨文島に住む金致善(今から140年前)お爺さんの頃から、よくあの島でたくさんのアシカを採ってきたんだと教えてくれた。-現在、その金致善氏のひ孫の金哲修(57歳)氏が長村村落に住んでいる。- 一行数十人は元山などで明太などを積んだ船を鬱陵島に停泊させ、筏をこいで2日かかっておよそ200里の距離にある「トルソム」に到着した。島の表面は岩で覆われており、人影は無かったと言う。

トルソムは大きな島が2つ、そして多くの小さな島から成っていたが、大きな2つの島の間に筏を留めて、10日ほど滞在しながらアシカを捕獲したり、ワカメやアワビなどを岩から採取した。そして、鬱陵島に再び戻り、釜山や対馬に出かけ、日本人に売ったが、日本人はアシカを大変喜んだと言う。アシカの肉は食べ、皮で靴なども作ったと言う。彼が最後に行ってきたのは28歳(1904年)の時だというが、世の中が混乱していたため、その後は「トルソム」に行く事はなかった。しかし、今でもはっきりと記憶しているという。そして現在、西島里に住む金允植(35歳)氏の家屋の材木は昔、鬱陵島から持ち帰った松の木だという。「(私たちが)採ったアシカを日本人がカネと商品を払って買っていったが、当時、日本人はトルソムについてはまったく知らず、トルソムで日本の船なんか見かけた事も無いのに、その島が日本の島だと主張しているのは、怪しからぬことである」と金氏は興奮するのであった。

 

1950年代

『独島の生態』
1956.08.25 東亜日報

独島周辺には、訳100匹と推定されるアシカが生息しており、このアシカは、時々岩の上に上がって来ては、叫んだり遊んでいるが、その鳴き声はまるで子牛が鳴くかのようでもあり、人が近くにへ行ってもあまり逃げないと言う。

1960年代

『独島の太極旗』
1962.01.10 東亜日報

太極旗を掲げ、竹島ではなく独島が日本の領土ではなく、大韓民国の領土とは厳然とした事実を改めて伝えてほしいと叫んでいるようだった。カモメとアシカだけが寂しい警備隊員たちを慰めてくれる独島の...

 

『独島の太極旗』
1962.01.10 東亜日報

太極旗を掲げ、竹島ではなく独島が日本の領土ではなく、大韓民国の領土とは厳然とした事実を改めて伝えてほしいと叫んでいるようだった。カモメとアシカだけが寂しい警備隊員たちを慰めてくれる独島の...

 

1970年代

『乱獲で消えた孤島の名物』
1970.11.28 東亜日報

独島の場合も一時は機関銃でアシカを撃ってとらえたこともあったとし、アシカを取って上部に上納することもあった。

 

『海洋動物の楽園 独島』
1976.08.03 京郷新聞 

1930年代にも一人の学者によって独島がアシカ、アシカなどの回游または基産地として、国際学界に報告された。 しかし、解放後54年がたち独島に警察警備隊が駐屯してまた、獨島漁場が開発、漁船の出入りが頻繁になり、独島の西島で焼く500m離れたザリガニ岩で群れをなして住んでいた動物たちが徐々にいなくなり、60年から姿を消した。

「アシカ、絶種ダメ」とも書かれています。

 

新聞記事以外にも、独島義勇守備隊長の話などありますが、原本が確認出来なかったので、確認できたらまた載せます。彼の証言によると1945年以降、1950年代の半ばにかけて当時少なくとも700頭あまりはいたと。
独島義勇守備隊長:ホン・スンチル(홍순칠)著
『この土地が誰の土地なのに』(이 땅이 뉘 땅인데)

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